日曜日に夕方、隣駅にあるインターナショナル・チャーチに行ってきました。
『聖書の言葉を聴きたい。賛美歌を歌いたい。』と、ずっと前から思っていました。
本当は午前中の礼拝に行きたかったのですが、夜勤の仕事が長引き、一端帰宅して少し休んでから教会に行きました。
そこの牧師さんは日本の方ですが、日曜日に夕方からは外国の牧師さんを招いて日本にいる外国人と、英語に興味がある日本人の為に、英語の礼拝を行っています。
外国人の牧師さんの言葉は、全て同時通訳で日本語で聞くことが出来ました。
その日は信仰についてのお話でした。
”Believe” ではなく ”Trust” です。聖書の中のヘブル人への手紙11章1節~3節。
『信仰とは、望んでいることがらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。』
ある一人の人が、イエスのもとに行き、病気の家族を治して欲しいとお願いをします。そこで、イエス・キリストはその病気の家族のもとに行き、病気を癒やそうとします。でもその人は言いました。『今ここで、言葉を掛けてくれるだけで、私の家族は治ります。』
これがキリスト教でいうところの『信仰』です。私はこれを聞いて、こんなに強く、深く信じる心がどこから来るのだろうと思いました。すると牧師さんは私の心が見えたかのように、信仰は『祈り』によって強くなることを教えて下さいました。
途中、英語の歌を歌いました。~Our father who art in heaven,・・・・・~
この歌は私が学生の頃、学校で歌った事がありました。音楽の授業だったか、礼拝の時間だったか、クリスマスだったか・・・いつかは全然覚えていないのに、この英語の歌をしっかりと覚えていました。
礼拝後、牧師さんにこの歌について聞いてみました。これは聖歌の中にありました。学校でも教会でも、礼拝の時には賛美歌を歌っていました。聖歌は他にも沢山の教会で歌われているそうです。そして、聖歌は基本的には聖書の言葉をそのまま歌にしたものだそうです。私はこの歌が、そのまま聖書の言葉であったことを40年経って初めてしりました。
マタイによる福音書6章9節~13節
天にまします我らの父よ
願わくは、御名をあがめさせたまえ
御国をきたらせたまえ
御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく
我らの罪をも赦したまえ
我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ
国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり
アーメン
それは、私が小学校の時に覚え、今も忘れない『主の祈り』でした。
学校で覚えたあの英語の歌は、私が子供の時から知っていた、あの『祈り』でした。
英語になおすとこうなるんだ、と思うくらい、日本語の言葉とは抑揚が異なり、同じ『主の祈り』だとは、聞いてもピンときません。
『信じること』や、今でも忘れない子供の時に覚えた『主の祈り』、そして久しぶりに歌った英語の聖歌。何となく失っていたものが、また戻ってきたような、そんな気がしています。
日曜日に夜勤明けは、普段は母の畑を手伝う日。
でも、もし、またチャンスがあったら、またここに来よう!そう、心に決めました。
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