寂しさ ~私の経験~

気づき

私には長い間克服するのが難しい寂しさがありました。
相手の言葉や行動が理解できないことの寂しさでした。何故そうするのか、何をしたいのかが理解出来ず、相手の理由や目的を必死になって見つけようとしました。
理解出来ない寂しい自分の心を深く追求せずに、相手の言葉・相手の行動を探していました。でも、何を見ても、何を聞いても、何を突き止めても、結局はその寂しさを消すことは出来ませんでした。そして、それは、相手に『自分は信頼されていないんだ』という深い喪失感を与えてしまいました。

これまでも私は何度か寂しい思いをしてきました。
死によって父の存在そのものを失った時の寂しさ。
父の死の直後、慕っていた宣教師夫妻がアメリカに帰ってしまった時の寂しさ。
母に自分の気持ちを理解してもらえないと思っていた時の寂しさ。
そして、つい最近経験した、今なお心に深く残っている人を理解することが出来なかった寂しさです。

父の死による寂しさは数十年続きましたが、『死』への解釈によって克服する事が出来ました。
慕っていた宣教師夫妻がアメリカに帰った時は、父の直後直後だったため、『みんな私から離れて行くんだ』という、遊園地で迷子になったような気持ちでした。でも、これは時間が経つにつれ自然に無くなっていきました。
母が私の気持ちを理解してくれないと思っていた時の寂しさは、母を理解していくことで克服出来ました。

残るは、一緒にいたいと願っていた相手の事を理解出来なかった時の寂しさです。私はずっと起こった出来事を思い返しています。そして、今は相手の言葉や行動ではなく、その時の自分の気持ちや言葉・行動を思い返すようになりました。
そして、分からないという事実をそのまま受け止めず、今そこにない『不安』や『不満』を自分の中で創りだし、それを相手に向けていたこと。それによって、私の『不安』や『不満』は更に膨らみ、無意識にしていた行動が、実は相手から離れようとする行動だったことに気づきました。

『寂しさ』と『離れることを無意識に願う』気持ち。
自分にとって痛くも痒くもないことであれば、私は気にしていなかったと思います。私にとって嫌なこと、裏ぎる行為だったからこそ、自分が理解出来る理由を探していたのだと思います。同時に理解出来ない理由を相手に示したいと願っていたのだと思います。

深く煮詰めるべきは自分の言葉・自分の行動。
私は自分の心を素直に相手に伝えること、ただ『私はそうされることで嫌な思いをしている。傷ついている。だから止めて欲しい』と素直に言えなかったことに『寂しさ』を感じていたのかも知れない、今はそう思います。きっと素直に心を見せられない、自分が相手との間に作った距離。そう言ったら『じゃあ、別れよう』とさらっと言われてしまうかも知れない恐怖心。相手を信頼出来なかった、自分に自信が無かった。全てが私が持っていないことによる『寂しさ』でした。

『寂しさ』は人それぞれ。一人の人間の中にも様々な要素がありますが、その中に突き詰めてみると本当の『寂しさ』ではなく、自分の努力が足りないだけのものもあるのかも知れません。
相手を信頼し、自分を信じる勇気と強さ。

私は、長く引きずっている この『寂しさ』を相手との問題ではなく、自分の努力が足りなかったことよる、自分の問題として素直に認め、受け入れようと思います。自分を信じる勇気と強さで、この『寂しさ』を『反省』に変えようと思います。

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