祈りとは感謝である。
願っていることが既に叶ったかのように感謝することである。
まだ叶っていないことが分かっているのに、既に叶ったかのように感謝する事は難しい。そこには、絶対に叶うという『信念』が必要となる。
『信念』を持つためには、絶対的な存在が必要となる。その存在が自分の中にある人、自分の中に『揺るぎない強い意志がある人』は素晴らしいと思う。
自分の中に見つからない人も、また素晴らしい。
その人は周りを見廻して、自分にとって絶対的な存在を見つけることが出来る。
私にとっての絶対的存在は『神』である。聖書の中にあった、ある言葉を思い出す。
『あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、 また日や光や、月や星の暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちに、そのようにせよ。』伝道の書12:1
幼少の時、出席のシール欲しさに近所の日曜学校に友達と通い、学生時代は生活の一部として教会に行っていた。そして、そこで聞いた数多く聖書の言葉が、今私が絶対的存在を探すとき、目の前にはっきりと表れた。
聖書で目にした数多くの神の愛を示す言葉
・わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。(ヨハネ第一の手紙 4章16節)
・心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ (ルカによる福音書 10章27節)
・子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。(ヨハネの第一の手紙 3:18)
・愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。(ヨハネの第一の手紙4:18)
私は何年も何十年もこれらの御言葉を思い出すことなく過ごしてきた。でも今、神の存在を強く認識するようになり、神を意識した生活がどんなにか人間を強くするか、いや逆に、神を意識しない生活がどんなにか人間を弱くするかを思い知った。
今、この瞬間、神の存在を感じるだけで、心の中の恐れが消えていくような気がする。これが、これからも続くよう神を意識するための何らかの行動をしなくては、と考える。聖書を読む、教会に行く。キリスト教に限らず、他にも神の力・神の愛を知る機会は存在する。それで良いと思う。集会に行く、セミナーを受ける、友達と食事をする、ダンスをする、音楽を聴くなど何でもよい、と『神との対話』にもある。ただ、自分の内側に喜びを感じられるもの、自分が幸せに感じるものであれば良いのである。
私は自由でいたい。
神を身近に感じながらも、私は私らしく、柔らかく優しく自由に前に進んで行けることに感謝しようと思う。
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