ひとが神を忘れたとき ~愛し、破壊し、再び愛する~

気づき

人は最初に誰かを愛す。
その人が自分を愛してくれない。その人が自分の思ったとおりに行動しない。自分が望む道を歩いていない。
すると、人はその関係を破壊してしまう。
でも、本当は全て自分の勘違い。
その人は自分を愛してくれていた。その人はその人の思った通りに行動しているだけ。その人の望む道が自分のそれと違っているだけ。
そのことが分かると、前よりももっとその人を愛するようになる。

『信念』のない人は、何度も何度もこれを繰り返す。こうすることで、やっと真実を見つけていく。

人は何故こんなに遠回りな事をするのか?
『それは、人間の行動には『不安』と『愛』の二つの動機しかないから。思考にも感情にも、この二つしかない。この二つは最初の思考、最初の力。人間の存在というエンジンを動かしている生のエネルギーである』
ニールが書いた『神との対話』の一説である。

人が何度も何度も同じ体験を繰り返す理由も同じである。人は常に、一方の感情から他方の感情へと揺れ動く。愛は不安を支え、その不安は愛を支え、その愛がまた不安を支える。

原因は・・・
人が神を信頼していないから。宗教が嫌いだと言う人でさえ、宇宙のどこかに目に見えない大きな力が存在していることは感じることが出来るはず。神の存在を否定することは難しい。
その神の愛が条件つきであり、特別な人のものであると思っていたら、私達は誰の愛を信頼することができるのだろう?
この世に存在しうる最高の愛が不確かなものであるなら、確かな愛はどこに存在し得るのだろう?

幼少の頃から聖書の言葉を目にしてきた私にとって、
『神の愛は無条件であり、どんな時にでも存在する。』『私には失うことの無い愛がある。』はとても自然で、真実だと感じられる。

私には自分の内なる意識から、常に正しい道を選択し、愛ある行動をするのは難しい。『不確か』な自分を信頼し、それに頼る程の『強い意志の力』は持ち合わせていない。ならば、『確かな存在』が自分を見捨てること無く、私の側にいつもいることを、あらためて信じることから始めようと思う。

 

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